東京地方裁判所 平成4年(ワ)293号 判決 1996年6月17日
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
理由
一 請求原因1(当事者)の事実は、当事者間に争いがない。
二 請求原因2(春子の治療経過及び死亡原因)中、春子が昭和六二年六月一八日、被告病院において出生したこと、同人が心室中隔欠損症及び肺動脈狭窄症の先天的疾患を有していたこと、原告ら及び春子が、二月一四日、被告との間において本件診療契約を締結し、春子が同日被告病院に入院したこと、同人が、同月一九日、清水医師の執刀により本件手術を受けたこと、同月二五日のレントゲン検査の結果、春子の心臓の回りに液が溜まっていることが判明したこと、春子が、同月二六日、高熱を発して呼吸困難に陥ったこと、清水医師が春子に対し、同日、心のうをを縦に切り開き、心臓の周囲に大網を被せ、ドレーンチューブをセットする緊急手術を行ったこと、清水医師が三月六日、春子の三度目の手術を行ったこと及び春子がMRSA感染により敗血症を発症し、同月九日午後三時三〇分MRSA感染に基づく敗血症により死亡したことは、いずれも当事者間に争いがない。
三 そこで、まず、春子のMRSA感染源及び感染経路について検討することとする。
1 前記争いのない事実と《証拠略》によれば、次の事実が認められる。
(一) 清水医師は、平成二年一一月一九日、被告病院外来で春子を初めて診察した。春子は、中等度以上の心室中隔欠損症及び肺動脈狭窄症の先天性疾患を有していた。清水医師は、春子の右疾患を放置しておけばチアノーゼ、運動制限、無酸素症状の発作等を生じ、日常生活にも支障が生じてくるため、幼年期において根治手術を行うことが必要であると診断し、原告らに対し、これを説明したところ、原告らは右手術を行うことを承諾した。
(二) そこで、春子は、右根治手術のため、二月一四日に被告病院に入院し、小児外科病棟に収容された。術前検査として、血液検査、胸部レントゲン撮影、心電図、エコー検査等が行われたが、特に異常は認められなかった。
(三) 本件手術は、二月一九日午前一〇時から午後二時一〇分までの間、清水医師の執刀により、被告病院六番手術室において行われた。右手術には、清水医師のほか医師二名、麻酔医二名、婦長、手洗い看護婦一名及び外回り看護婦二名が関与した。術前の手洗い、手術器具の消毒、手術衣の着用、人工心肺の消毒、麻酔等の処置は通常どおり行われた。手術の器具以外の、人工弁、人工血管等の春子の体内に入れるものは、すべて新品が使用された。春子の胸部皮膚の消毒は、まずヨード剤で広い範囲を消毒した後、切開部分をアルコールで再度軽く拭く方法で行われた。
本件手術の内容は、人工心肺を使用し、薬剤により心臓の機能を一時的に停止させたうえ(心臓停止時間は約一時間)、心室中隔欠損孔をパッチ閉鎖するとともに、肺動脈狭窄に対しては右心室より主肺動脈に至るまで切開して、その部位に一弁付きのパッチを使用して流出路の拡大を図るというものであった。縫合は、埋没縫合(骨を除いて、すべて下を三層に縫い、縫い目が全く外へ出ないようにする方法)の方法がとられ、また、ペースメーカーのワイヤーや、ドレーンについては、皮膚に直接切開創を入れ、そこから管を抜き出し、皮膚と管の接している部分に上下からガーゼを当てるという方法がとられた。また、静脈カテーテルも挿入された。
手術は特に問題なく終了し、手術後、春子は右手術室に隣接するICUに収容された。同人に対し、セファメジン(第一世代のセフェム系統)及びアミカシン(アミノグリコンド系統)の二種類の抗生物質が投与されたが、第三世代セフェム剤は投与されなかった。清水医師は、ドレーン部に当てたガーゼの交換を行わず、右静脈カテーテルの交換を三月二六日または二七日にはじめて行った。
(四) 春子の脈拍数は、同月二四日午前三時ころには一二〇まで下がったが、その後上がりはじめ、同日午前一〇時には一七〇まで上昇し、その後も夜間まで約一六〇ないし一七〇で推移した。清水医師は、脈拍数が速いので不審に思い、小児科の医師に春子のエコー検査を依頼したところ、春子の心のうに少量の液(心のう液)が貯留しているとの検査の結果がでた。清水医師は、このように心のうに液が溜まるということは、心不全が強いか、溜まっている液に細菌がついて、縦隔炎を起こしているとの疑いをもったものの、液の量はまだ多くなく、その他の全身状態も悪くはないので、しばらく様子を見ることとした。
(五) 清水医師は、同月二五日、再度エコーの検査を依頼したところ、前日に比べて心のう液が少し増え、縦隔炎の所見が顕著となったので、ドレーンを入れて排液したほうが望ましいと考え、同月二五日午後三時から三時二五分までの間、前記手術創の下縁を二センチほど再切開し、心臓の手術部の周囲及び胸を開いた骨の裏側に多量にあった膿を洗い流し、心臓の周囲に大網(胃の下にエプロン状になっている組織)を被せ、消毒液を管で送り込み洗い流し出すためのドレーンチューブをセットする縦隔炎に対する措置を行った後、春子をICU内個室に収容した。清水医師は、同日午後二時過ぎころ、右手術の際に排出された春子の心のう液を細菌培養検査に提出し、その結果、同月二六日に右心のう液からブドウ球菌が検出され、同月二七日か二八日ころ、右ブドウ球菌がMRSAであると判明した。
(六) 清水医師は、同月二六日に春子に対し三度目の手術を行ったが、前回洗い流した部分以外の縦隔に膿が相当たまっており、後日この膿からもMRSAが検出された。
(七) 春子は、三月七日ないし八日ころから、末梢が非常に温かいにもかかわらず血圧が下がり、昇圧剤を投与しても効果がないという敗血症性ショックの症状を呈し、同月九日午後三時三〇分、MRSA感染症による敗血症性ショックのため死亡した。
2 請求原因3(MRSAの性質)は、一般論としては当事者間に争いがなく、右争いのない事実、《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。
(一) MRSAは、一九六一年にヨーロッパにおいてその存在が報告され、一九七〇年代にはアメリカで、昭和五五年ころからはわが国においても検出されるようになり、日本においては昭和六〇年ころからその問題が医療関係者一般の間でも認識され、現在においても医療上重要な問題となっている。
(二) 黄色ブドウ球菌は、元来人間の鼻腔や皮膚に常在する細菌であるが、MRSAは、この黄色ブドウ球菌が、特別に耐性を持ったものである。これが、特にわが国において蔓延した主な原因は、<1>MRSA感染防止には全く無効な抗生物質である第三世代セフェム剤を術後感染予防に無差別的に使用したことにより、MRSAがより高度な耐性を獲得したこと、<2>日本における医療の構造的な問題であるが、施設上の制約等の理由により、病院内の衛生対策が欧米に比較して不十分であったことにあるといわれている。また、院内感染の場合、医療従事者の手指を介しての伝播が最も多く、MRSA感染症患者から離れた場所においても菌が検出されることがある。
(三) MRSAは、保菌者のすべてが感染症に罹患するというわけではなく、健康な者の場合は保菌していても感染を起こさないのが通常である。MRSA感染症に罹患すると、発熱、白血球の増加、血清マーカーの上昇、血沈値の亢進等の所見がみられ、臨床症状としてはショック状態、消耗状態等があり、心臓手術を受けた患者の場合は、縦隔炎や心のう炎を発症し、敗血症によるショックなどにより死に至ることがある。
(四) MRSA感染症を引き起こす要因として、次のものが指摘されている。
(1) 易感染性患者
MRSA感染症は白血病、悪性リンパ腫、固形癌などで免疫不全状態となり感染に対する抵抗力が著しく低下した患者あるいは心疾患、糖尿病患者、未熟児、手術患者、熱傷、血液透析、中心静脈栄養(IVH)による高カロリー輸液を受けている患者などに発生しやすい。MRSA感染症は、内科疾患の場合にはほとんど発生せず、その九五パーセントは術後に発生し、中でも全身麻酔を要するような大きな手術、心臓の手術や、人工臓器を入れる手術の後に起こることが多い。心臓手術の際は、胸部を切開すること自体が大きな侵襲であるうえ、心のうを切るとそこに菌が到達し、また輸液のためのドレーンを通して菌が体内に侵入することがある。また、人工臓器を入れる場合は、最初に内皮が形成されるために血液が凝固し、凝固した部分には白血球、抗体、補体、抗生物質は到達しないため、それが細菌の培地となって菌が繁殖するということがある。
(2) β-ラクタム剤の投与
感染症治療の目的でβ-ラクタム剤、特に第三世代のセフェム系抗生物質が長期間にわたり投与されている患者に発生しやすい。
(3) 抗生物質の誤用によるMRSAの発生
黄色ブドウ球菌感染を起こしている患者に対し、グラム陰性桿菌には効果があるが、ブドウ球菌に抗菌力が弱い抗生物質を長期間投与すると多剤耐性を獲得した強毒菌のMRSAが選択的に残り増殖するようになる。また、不顕性MRSAが抗生物質の長期投与によりPBP2’活性を発現し、典型的なMRSAに変化することになる。
(4) 保菌者との接触
MRSAは患者から患者への直接感染のほかに、感染症状のない健康保菌者、特に医師、看護婦などの医療従事者を通じて交差感染することがある。
(5) 長期入院
在院期間が長引くことにより、右(1)ないし(3)の要因が重なり合い、感染症発症の可能性が増加する。
(五) MRSA感染症の感染源及び感染経路としては、次のものが指摘されている。
(1) MRSA易感染者
MRSA感染患者の多くは前記易感染性患者で長期間の治療を受けても治癒せず、他の易感染性患者の感染源となる。さらに、この新しく感染した患者が感染源となり、適切な処置をとらない限り次々とMRSA感染が拡大していくことがある。
(2) MRSA保菌者
MRSAは抵抗力の低下した患者だけでなく、医療従事者など抵抗力のある人にも感染する。この場合にはMRSA感染症は発症せず健康保菌者の状態となる。医療従事者の手指だけでなく鼻腔内にもMRSAが存在することが証明されており、ここも感染源となる。
3 一方、《証拠略》によれば、本件手術当時における被告病院の手術室及びICUの衛生状況等について、次の事実が認められる。
(一) 手術室
(1) 被告病院においては、心臓外科及び脳外科は、六番手術室を専用していた。被告病院中央手術室(被告病院内の八つの手術室の総称)においては、手術の前日には〇・二パーセントテゴー液を使用して手術室の消毒を行い、手術室の出入口にはサージカルマット(防塵マット)及びウエルパス(エタノール液)手指消毒器が設置されており、手術器具は、高圧蒸気滅菌法またはEOG(ethylene oxide gas)による滅菌処理がなされ、感染症患者の手術に使用した器具には、洗浄してそのまま滅菌できるウオッシャー・ステリライザー(washer sterilizer)が使用されていた。滅菌水蛇口は、週三回、手術室看護助手が滅菌された蛇口と交換していた。手洗い用滅菌水は、月一回、業者が滅菌水フィルターを交換し、その際、滅菌水の通る管を消毒剤ステリハイド液で消毒していた。
(2) 医師及び看護婦が手術室内で着用するガウンは手術室外でのものと区別し、使用ごとに取り替えていた。医師及び看護婦は、術前には手術室手洗い場で手術用殺菌水手洗装置による流水による手洗いを行うほか、ヒビスクラブ(グルコン酸クロルヘキシジンという殺菌消毒剤)及び消毒用ポピドンヨードを用いて上腕部中程までブラッシングして手指の殺菌を行っていた。術衣や滅菌手袋の着用は手洗い後手術室内で行い、立会いの看護婦も経験年数が三年以上の滅菌操作(無菌操作ともいい、使用物品や適用部位を滅菌状態に保ちながら手順良く処理すること)の確実な者が充てられていた。手術室に勤務する看護婦は、原則として他の部署で作業をすることはなかった。人工弁や人工血管等は、原則として使い捨てとされていた。
(3) 手術終了後は、原則として、看護婦あるいは看護助手が手術室内の器材、物品をウオッシャー・ステリライザーや超音波洗浄機を使用して一時的な消毒をした後、中央サプライ(器材)室に出し、そこであらためて消毒がなされていた。手術室の床、ベッド等については、清掃作業員が手術終了の都度テゴー液で消毒し、手術室の棚も週に一回看護婦がテゴー液で消毒していた。レスピロメーター使用後は〇・三パーセントテゴー液を浸したガーゼで拭き、感染症患者の排泄物により汚染されたリネン類は、〇・二パーセントテゴー液に二時間浸した後、水洗いし、熱湯で洗濯機で洗う方法をとっていた。また、処置の前後及び入退室の際は、流水下で普通石鹸を用いて手を洗うこととされていた。なお、手術室の床の殺菌灯による消毒は行われていなかった。
(4) 被告病院では、本件手術前において、環境細菌検査並びに医療従事者及び患者を対象とした保菌検査は行なわれていなかった。ただし、清水医師は独自に、心臓外科の医師の保菌状況の調査を細菌検査室に依頼し、細菌が発見された者については抗生物質の投与を受けさせていた。
(二) ICU
(1) 被告病院ICUは、東京都の認可基準を満たしておらず、ベッド数は公称一〇であったが、実際は人員等の関係上四名の患者を収容するのが限度であり、これは中央手術室に隣接するほぼ正方形の建物で、周囲及び前方はガラスのついた扉になっており、左右に八畳ないし一〇畳程度の広さの個室が一つずつあり、中央は四ベッドから六ベッド程度入る広さの大部屋である。通常は二ベッドまたは三ベッドしか入っておらず、ベッド間の間隔は二メートル程度であり、また、心臓手術をした患者専用のICUはなかった。
(2) 本件手術当時、被告病院ICUにおいては、次のとおりの衛生措置が行われていた。
<1> 床は、業者が一日一回〇・五パーセントテゴー液で拭き、床頭台、ベッド、モニターなどは、看護婦が一日一回〇・五パーセントテゴー液あるいはヒビテンアルコール(グルコン酸クロルヘキシジンをイソプロピルアルコールに混合したもの)で拭く。尿便器はできる限り金属製を使用し、内側を多めの水で流したうえ、〇・三パーセントテゴー液で消毒し、周囲をテゴー溶液に浸したガーゼで拭いていた。機械類は〇・三テゴー液に浸したガーゼで拭き、レスピロメーター(気管切開した患者の気管カニューレのカフの圧を測る道具)は、感染患者が使用するものと非感染患者が使用するものを区別し、使用後には〇・三パーセントテゴー液に浸したガーゼで拭き、殺菌灯に二時間さらしていた。
<2> 患者がICUに入室する際には、ベッドサイドにビニール袋を入れたポリバケツ一個をリネン類(病衣、シーツ、タオルケット、タオル、毛布、枕等)用とし、〇・三パーセントテゴー液を入れたポリバケツ一個をサプライ物品用として、さらに専用包交車をそれぞれ用意していた。
<3> サプライ物品は、〇・三パーセントテゴー液に一時間以上浸して洗浄後中央器材室に出し、リネン類は二重のビニール袋に入れて種類・枚数のほか、MRSA感染患者が使用したものについてはMRSA(+)と袋に記入して洗濯場に出しており、血液や便などで汚染された場合は、その旨を明記して他のリネン類とは別にして洗濯場に出していた。洗濯場に出されたリネン類は、業者により消毒・乾燥が行われていた。
<4> ゴミは大きな二重のビニール袋に入れて口を閉じた上、MRSA感染患者に関するものは袋にMRSA(+)と記入しておくと、清掃業者が焼却専門の置き場に運んでいた。排泄物は、おむつはリネン類と同様に処理し、分泌物は汚物室に捨て水を多めに流すようにしており、容器は〇・三パーセントテゴー液に一時間浸していた。
<5> 患者が退室したときには、まず使用した器材類について、ワゴン、モニター、ポンプ、包交車など拭けるものは〇・三パーセントテゴー液で拭き、滅菌コップ、鑷子、膿盆、体温計など水に浸せるものは〇・三パーセントテゴー液に一時間浸して消毒し、その後、ベッド、床、壁などに〇・三パーセントテゴー液の噴霧を行っていた。消毒後は二時間ドア及び窓を閉め切り、さらに〇・〇五パーセントテゴー液で洗面台等を拭き、さらに感染症患者の退室時には、部屋を目張りしてホルマリン消毒を行い、その後に〇・〇五パーセントテゴー液で洗面台等を拭いていた。
(三) 本件手術当時の被告病院ICUにおける看護の状況は、次のとおりであった。
(1) ICU勤務看護婦は合計一六名、看護助手は合計二名であり、勤務時間は、日勤が午前八時三〇分から午後五時まで、準夜勤が午後四時三〇分から翌日午前一時まで、深夜勤が午前〇時三〇分から午前九時までとなっており、夜勤帯(準夜勤及び深夜勤の時間帯)においては、通常は二名の、在室患者が多いときや心臓血管外科の患者がいるときには三名の看護婦が配置されていた。二月一九日における夜勤帯看護婦は三名、同月二〇日から同月二五日までの間の夜勤帯看護婦は二名であった。日勤時間帯は、原則として一人の患者を特定の看護婦が担当し、夜勤帯においても、感染症患者などの場合には一人の看護婦が一人の患者の看護に当たることになっていた。心臓外科の患者は、ある程度経験を積んだ看護婦が担当していた。
看護婦は、うがいを励行し、風邪をひいているときには原則として就業せず、伝染性疾患に罹患した場合あるいはその疑いがある場合には、婦長に報告するとともに医師の診察を受け、その判断に従って対処するようにしており、看護婦の定期的な健康診断は、春と秋の年二回行われていた。
(2) ICUで看護をする看護婦は、廊下で外用ガウンを脱いだ上、専用のサンダルに履き替え、手を〇・一パーセントテゴー液でブラッシングした後、ウエルパス(消毒用のアルコール製剤)をつけて乾燥させてから防塵マットを通ってICUに入室し、ICU内の休憩室において毎日新しいガウンに着替え、その上に予防衣、帽子及びマスクを着用してから勤務に就いていた。医師がICUに入る場合には、入口の更衣室で自己の白衣を脱ぎ、ICU専用の白衣及び帽子を着用し、手指をウエルパスで殺菌していた。なお、廊下とICUとの間には、通常の手洗いをする洗い場は設置されていなかった。
(3) MRSA感染患者については、「感染者入室時の取り扱い」マニュアルに従い、感染が確認された患者は可能な限り個室に収容し、個室への人の出入りを少なくするために受持看護婦は各勤務帯で一人と決めておき、処置・介護をするに当たっては予防衣(手首の袖口が締まり、首周り、膝下までを布が覆うようになっているガウン)の着脱の方法に注意し、また入室前後の石鹸を使用した流水下における手洗いが推奨されていた。
(四) 《証拠略》によれば、本件手術以前に、被告病院ICUに収容された患者の中からMRSA感染症に罹患した者が複数名発見されており、また、本件手術後においても、被告病院ICU(大部屋または個室)には、次の三名のMRSA保菌者ないし感染者が収容されており、このうち縦隔炎の患者は、少なくとも二月一九日及び二〇日には、ICU大部屋において春子の隣に収容されていたことが認められる。
(病名) (ICU入室期間) (感染の有無)
縦隔炎 二月一二日から同月二〇日まで 有
TOF 二月二八日から三月二日まで 無
後腹膜腫瘍 三月三日から同月四日まで 無
4 以上認定の春子の被告病院への入院から死亡までの経過、MRSAに関する医学的知見、被告病院手術室及びICUの状況等に鑑みると、春子のMRSA感染源及び感染経路として考えられるものは、(1)時期的な観点からは、<1>入院後手術前の諸検査の段階、<2>手術中の段階、<3>手術後のICU又は病室で治療を受けていた段階のいずれかにおいて、(2)感染経路の観点からは、<1>病院内に浮遊していた細菌が呼吸あるいは身体の創傷部を通して感染した、<2>細菌の付着していた器具等の使用によって感染した、<3>体内に装着、挿入したドレーンやカテーテルを通じて感染した、<4>保菌している医療従事者、他の保菌患者、感染症の発症患者あるいはこれらの患者と接触した医療従事者との接触、接近により交差感染した、<5>もともと春子が保有していた細菌が手術室の身体侵襲等に伴い体内に侵入し感染した等のものが考えられる。
被告病院においてとられていた手術室及びICUにおける消毒殺菌等の措置は、前示認定のとおりであるが、そのような措置がとられていたにもかかわらず、本件手術当時被告病院においてMRSA感染による発症者が生じていたことに照らすと、春子が右に掲げたいずれかの感染源及び感染経路によりMRSAに院内感染したとの疑いをまったく否定することはできないというべきである。
ところで、証人清水進の証言によれば、春子は本件手術後縦隔炎を発症して縦隔に膿がたまったが、清水医師がそれを取り除く手術を行った以後も、縦隔の別の部分に再び膿がたまり、敗血症の全身症状が持続していること、本件手術及び縦隔炎の対症手術をした清水医師は、このことから、菌が感染した病巣部は、本件手術の創傷部や膿がたまった縦隔部ではなく、本件手術に際し、心臓の穴を閉じるときに使った布あるいは右心室の出口を広げるときに使った布にあり、これらの異物に細菌が付着していた可能性が最も高いとの所見を示していることが認められる。この事実によれば、春子がMRSA感染機序としては、本件手術に際し使用した右異物に感染したものであり、これには白血球、抗体、補体、抗生物質は到達しないため、それが細菌の培地となった可能性が最も高いものというべきである。そして、前記のとおり、MRSA感染症は、もともとMRSAを保菌していた者が、免疫力の低下などを契機として右菌が増殖し、発症することもあり、かつ、何ら既往歴のない患者であっても、MRSA保菌者であることは否定することはできず、証人清水進の証言によれば、MRSAの感染と発症との間の通常の期間(潜伏期間)についても医学上の定見はなく、菌の数と毒力及び患者の体の抵抗性という三つのファクターの相関により異なりうるのであり、感染から早ければ二日、遅ければ二週間で発症することが認められる。
右に認定した事実を総合すると、春子のMRSA感染源及び感染経路としては、前記の考えられる可能性のうちの、本件手術以後の時期に手術室あるいはICU内において、右異物に感染したものであろうと推認され、それ以外の可能性は右可能性に比し低いものということができる。しかし、右事実によっても、異物に感染した細菌はどこから付着したものかは確定することはできず、その感染経路については、春子が本件手術前から保菌者であり、自らが保菌していた細菌が右異物に感染した可能性を排除し去る証拠がない以上、この可能性を否定することはできないのであるから、結局のところ、春子の本件MRSAの感染源及び感染経路については、右以上にこれを確定することはできないものといわざるを得ない。
そうすると、春子の本件MRSAの感染源及び感染経路を確定できない以上、いずれの点において被告に過失があったかについてこれを確定することはできないのであるから、被告に原告ら主張の過失があるとして、債務不履行に基づき損害賠償を求める原告らの請求は理由がないものというべきである。
なお、本件MRSAの感染が春子自身の保有していた細菌によるものである場合に、被告において右感染を防止すべきいかなる注意義務があるかについては、なんら具体的な主張立証はないが、本件手術を行わなければ春子自身の保有していた細菌による感染もないことが考えられる。しかし、前記認定の春子の本件手術開始前の症状によれば、清水医師において本件手術を行ったこと自体については、緊急性のない不適切なものということはできないし、本件全資料によっても、かかる観点から清水医師に過失があったことを認めるに足る証拠はない。
四 結論
以上のとおり、原告らの本件請求は、その余の点につき判断するまでもなくいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九三条一項、八九条を適用の上、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 長野益三 裁判官 玉越義雄 裁判官 名越聡子)